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千年女優

 故・今敏監督の千年女優をみた。

 去年ネットフリックスに追加されるという記事をみたときに、今敏といえば千年女優だよなという先輩といっしょにみようという話になり、それからしばらく放っておかれていた。

 やっぱり名作だ。ぼくも東京ゴッドファーザーズよりも千年女優のほうが好きだ。

 今敏のおこなう作劇の器用な部分、ゴッドファーザーズにもみられた辻褄合わせの部分は、それこそゴッドファーザーズを好きな人間が今敏映画の気持ちいいところとして挙げる箇所だと思うけど、ぼくの感想としては、そういう部分はそこまで重要視していない。そういった脚本的な小技は、もちろんないよりはあったほうがいいし、千年女優において「鍵の意味」の回収をおこなうところであらわれているけど、注目するべきはそういう点ではない。

 やはりテーゼなのだという話になる。千年女優のほうが、そこが明確だと思う。

 人間がなにかを演じるということをひとつの箱におさめて、それがどう機能するかを、千年に及ぼうという愛、人生とやらをやるときの鮮烈なメタファーとして映す(もちろん、千年というのは通常の人間では過ごしえない時間だが、その大きな数字そのものが「その愛は狂気にも似ている」というキャッチコピーに足りるようになっている。またデュアルな意味として、いくつもの映画に出演した女優の偽の人生の総量が、おそらく千年ほどなはずだ)。

 結局、この話のえらいところは、演劇を演劇のなかでみせることそのものに意味を持たせていることだ。女優自身が生きた本物の人生がだれかの影を追いかけるものであったときに、女優が生きた偽の人生にだれかの影を追わせる構図を丸被せにする。メタフィクションというのは、そのメタフィクションをおこなうことそれ自体に蓋然性がなければ魅力を感じられないものだと思うが、その点で、千年女優の筆致はすさまじく正しい。

 最後のセリフは、女優になろうとしてなったわけではない女優が、それでもそれが天職だったことを示している。女優が演じているのはほんとうに偽の人生だけなのか? 自分の人生をも演じられる人間こそが真の女優ではないのか? 追いかけている自分、演じている自分が好きだったという告白でひとりの女優の人生が終わる。観賞者たちは、二重にかさなる女優の人生を最後まで見届けて終わる。

 監督デビューが比較的遅く、また短命だったせいもあるけど、寡作に終わってしまった今敏の遺した作品のなかでも、稀有な作りをしていると思う。資金的な面の問題もあるだろうが、彼の遺作を継げる者がいないという理由で製作が止まっているのもうなずける話だ。

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 視聴後の感想として、やはり雪のなかを走るシーンの美しさについては言及せざるを得なかった。画角を含めたアニメーターとしての才も光る人だったなと思う。