lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

勉強むずし

 昔から学習するのがほんとうにへただな、という自覚がある。これは年のわりにストレートな自虐とか謙遜とか謎のポージングじゃなくて、ぼくはほんとうに勉強がへただと思う。これは成績的な話、つまり結果的な話じゃなくて、過程的な話だ。

 というのも、なんというのか、物事を自覚するのが上手ではないのだった。これは説明がむずかしい現象だ。ぼくは意識的な勉強というのができたためしがない。暗記するようなものを除いて、なんだか気づいたらわかっている(解けている)という状況に持っていくまで試行回数を増やしているだけで、そこにたいして意識がない。

 これは意識がないのに習得できていてすげーという話にはならない。そういうことが逆に優れる領域もあるとは思うけど、大半のことは知覚しておこなったほうがいい。当然のことだけど、知覚していると意識を持って物事を処理できる。そうでないと、できない。そしてぼくはかなりできていない。

 なんにでもかなり当てはまることで、たとえば小説がそうだから困る。小説にかんしてぼくが意識のある領域とない領域ははっきりしている。この4年、小説を書く、あるいは読むようなことをして、どういうものがいい小説で、どういうものが悪い小説であるのかは、自分のなかで理論が体系化されてきた。これは知覚している領域なので、ぼくの理屈でよければ説明も可能だ。でも、小説の書き方、キャラクターの作り方、アイデアの出し方といった、小説における実務的な部分はほとんどわかっていない。これは100万字書こうがわからない。意識がなく、ゆえに再現性がない。だからあまり、というかぜんぜん、自信がない。唯一実務的な部分で意識を持っているのは、漢字をたくさん開く(ひらがなで書く)ようになったところくらいだ。

 たぶん自信を持ちたいのだと思う。現実的な実績か、根拠のない自信かでいえば、世間一般的には前者のほうが大切に思われているけど、ぼくは後者がほしい。根拠は(つまり、ひとにとっても真実である根拠なのか、少なくとも自分にとっては真実として機能する根拠なのかは問わずに)、あってもなくてもいいけど、せめて自信はほしい。

 ぼくに関与できない大きな部分、たとえば景気とか市場規模とか時勢あたりはともかくとして、たぶんずっと小説は書いていくのだと思う。30歳になったときに自分がどう思うかわからなかったけど、おそらく書くのだと思う。そして、だからこそ問題なのだとも思う。

 ぼくの性質として、ぼくの打鍵は閑文字に向かう。たとえば今みたいに、べつにお金にならないものを、時間をかけて書いてしまう。これがなんの訓練になってきたかというと、それはわからない。これも知覚していない領域なので、これがなんらかのかたちで機能していようがいまいが、その結果にたいしてぼくが述べられるような分析はない。たぶん、小説を書き上げるにあたってどこかしらで機能していた性質なのだと思う。でも自覚はないし、自信もない。

 永井荷風先生の『十六、七のころ』を読んだ。

 ものすごくきれいな文章で、ひさしぶりに詩情的な観点からして日本語にたいする美的感覚が働いた。永井先生の随筆集を買って読もうと思う。