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現代の文語体

 このところカポーティの原書を読みながら副読本的に村上春樹訳の日本語版を読んでいる。そうしながら、昨日ふと「村上春樹および村上春樹的な文体は現代における文語体といえるかもしれんなぁ」と思った。学習しないと読み解くことができないという意味ではない。ハルキ的な言い回しというのは文章のなかでしか生きられないもので、そこにリアル(口語)を感じられないからだ。今のぼくは氏の文章も感性も好きだけど、それでも現実とは隔絶していると思う。ぼくは「ぼく」という一人称を使う。文章においてもそうだし、現実でもそうだ。でも大半の男はそうではない(人称の使い分けを象徴として分人主義を説いたのが平野啓一郎氏だ)。

 ぼくは小説の中身および外郭というものは、いずれも現実の内にあるという考えを持っているので、自分で書くにあたり、ぼくの認識するリアルから離れることをあまりよしとしない。このあたりは超口語体でデビューした舞城王太郎氏(と、彼の着想元になっている岸本佐和子訳のトム・ジョーンズ)を、ぼくが絶賛を超えた絶賛をしている理由の一端となっている。書かなければならない中身がリアルであるなら、それを伝えるための媒体であるところ、つまり文章という構成物もリアルに寄ったほうがいい、というような考えを、自分のなかに持ってはいる。どうしてこういう歪曲した言い回しなのかというと、そう思っている反面、そうできていない部分が否めないので。

 小説で描かれる中身は、著者にとっては真となる世界観を作る。そこは現実というデフォルトの世界観とは違うので、好きに構成してよい。そのかわり、はずれすぎると総則的な部分がうしなわれて、受信側が理解することができなくなる(そして理解できないということは、おもしろくないということになる)。

 ようは、つまらない結論だけど、これもバランスなのだろうと思う。総則のなかにおさまりながら、外れ値にならない程度に個性を出す。それができないからむずかしいのだなぁ