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りぽぐらむ

 フランスの言葉遊び大好き集団ウリポの一員である作家、ジョルジュ・ペレックが書いたリポグラム作品に、『煙滅』というタイトルの小説がある。

 リポグラムというのは、特定の文字を使わないという制約のもとに物を書くことだ。日本では比較的最近、西尾維新先生が講談社から『りぽぐら!』という小説を上梓して話題になっていた。

 執筆上の制約というのは、たとえば『煙滅』の例でいうなら「アルファベットのeを使わない」というような、まったくすさまじいものだ。母音のひとつを封じて物を書くなんて、正気の沙汰ではない。が、ペレックはやった。さらにすさまじいことに、日本語役者の梅塚秀一郎先生は、こともあろうに「い行」を丸ごと使わないという制約を設けることで、神業のような翻訳をおこなった。どういうこっちゃ。

 なんのために執筆上の制約を課すのか? という疑問に対する回答は難しい。フランスの作家オノレ・ド・バルザックは、文学といえば戯曲、すなわち公演されるものであった時代に小説を書き始めたけれど、当時は小説の立場は弱く、まともな文学作品扱いをされていなかった(今でいうライトノベルのようなものだ。主観的に優れるライトノベルは存在するが、それらは文壇で評価されるものではない)。

 戯曲と小説のいちばんわかりやすい差は、韻文であるか散文であるかとなる。これまたフランスの悲劇作家ラシーヌは、ほぼすべての戯曲をこりこりに凝った韻文で書きあげたという。それに比べて、散文とやらのなんと技巧なきことか。韻を踏まぬ文章などこどもにも書けよう。というわけで、小説は評価されていなかった。

 リポグラムを書く人間すべてがそのためとは言わないが、評価の軸として技巧を見出すというのはひとつあるように思う。

 ちなみに、批評行為にそうした評価軸を求める姿勢そのものは、ぼくも好きだ(ただし、ぼくが技巧として採点する箇所は韻文であるかどうかではないが)。われわれは可能なかぎり、間主観的にものを評価しなければならないが、そのためにはフラッグが必要になる。そのフラッグのひとつが、だれしもが納得できるたぐいの技巧だったとしたら、それは悪い目印ではないように思う。

 が、しかし技巧を求めるのは、少なくとも商業的にはナンセンスだった。9割の人間、すなわち大衆は、目を凝らさなければわからない細かな技などは気にしない。どうでもいい。当然、言葉遊び大好きグループのウリポもけして迎合はされなかった。

 ぼくがクローズアップしたいのは、『煙滅』を紹介しているこのページで、作家の奥泉光先生が記していた以下の一文だ。

もちろん大抵の小説には「物語」がある。けれども、あらかじめ心に抱かれた「物語」を言葉で的確に書き表すのが小説ではない。むしろ言葉の方が「物語」を変容させ、産み出していくところに、小説の小説たるゆえんはある。その意味で、特定の文字の不在が、ミステリーふうの「物語」を律し主導していく本作品は、きわめて小説らしい小説であると、逆説でもなんでもなく、いいうるだろう。

 物語とはなにか?

 つきつめれば、ぼくが知りたいのはそういうことになる。

 たとえばぼくがものを書こうとしたときにすることは、原初的なイメージを石像として彫り出そうとすることだ。'おおよそ、このような話が書きたい'。そう思い、そこに向かおうとする。その過程で、だいたいの場合、ぼくの予想しないところで、像を彫る手がずれる。やってしまった…。でも、今さら後戻りはできない。気を取り直して進めていると、そのうちに楕円の像ができる。ぼくがはじめに想定していたのはきれいな真円のはずだったから、イメージどおりにはなっていない。それでもしょうがないと思う、あるいは、こちらのほうがむしろいいと思い、坂に向けて転がす。

 抽象化すると、一本の小説を書くというのは(少なくともぼくにとっては)そのような動作だ。それを踏まえて、ぼくは「いつかイメージどおりの像を彫りたい」と思っていた。つまり、事前に真円を思い描き、真円を作れればよいと思っていた。今でもそう思っている節はある。が、それが果たして正しく物語ることなのかどうかが、わからない。

 上記の奥泉先生の話は、まさしくそういうものだ。

 あるとき、ぼくはさまざまな作家と話して、「言葉が言葉を生む」という、ふしぎな概念があることに気がついた。

 これは、小説を書いたことがない人間にも想像できることだ(とはいえ、ある程度こんで小説を読む人間は、みないちどくらいは自分も書いてみようと思ったことがあるはずだが)。あなたはWordを開き、なにかしらを書こうとして文章を生成してみる。すると登場人物らしき者があらわれる。彼らがなにかを話す。どこかへ行こうとする。この時点で、おもしろいかおもしろくないかはどうでもいい。肝心なのは、それが語られているかどうかだ。語りがきちんと機能しているかどうかだ。

 どのような像を作るかのイメージが希薄な場合、適当に書き出した小説は驚くほど序盤で止まりうる。これはおそらくどのような大作家であってもそうだと思いたいが、物語を書こうとする者は、かならずいちどは筆が止まる。素人であろうと大作家であろうと、止まるときというのは訪れる。問題はここだ。その停滞を一時的なものとするか、永久のものとするかだ。

 あなたはこの停滞を打破したい。そのとき物語の続きは、いったいどこから湧いてくるのか。もちろん、紡がれる話はあなたの脳が演算したものであるはずだが、バイナリコードになる前の元となるプログラム言語、エネルギーがそこに存在するはずだ。

 では、そのエネルギー源はいったいどこなのか?

 これの答えが、あなたがそれまで書いてきた「前の文章」となるかもしれない、というのが上の話だ。これを質量の保存に喩えるならば、直感的におかしいと思う話かもしれない(じつをいうと、ぼく自身もそうだ)。いちど生み出された文章は、すでに消化されたものだ。そこにはもうエネルギーは残されていないはずだ。排泄物を食しても栄養にはならないのと同じ要領で、生成済みの文章から新たな文章が生まれるはずがない。そのように思えるかもしれない。

 だが、そういうことが起こりうる。らしい。

 かりに一連の動作が、ある程度無意識によるものだった場合、では物語というものはどこからやって来るのだろう? これもまた奇妙な話だが、ぼくは自分が書いた話を、すべて自分が書いたようには思えない。良し悪しはさておいて、どれもせいぜい半分ほどしか考えていないように思える。これはぼくの生来の記憶力の悪さが原因なのだろうか? そうかもしれない。でも、もしかしたらそうではないのかもしれない。

 「言葉のほうが物語を変容させる」

 奥泉先生の言葉は、そういった意味で非常に興味深いものだと思う。

 

 ところで、『煙滅』のアプローチはおもしろい。作中の登場人物たちは、自分たちの使っている言葉の母音が減っていることに気づく。最後には、e以外のアルファベットもとうとう制約されてしまう。話せる内容がどんどん不自由になっていく。

 この小説は、読者であるわれわれもまた、そのような制限のもとにいるかもしれないと暗示する。つまり、われわれは5つの母音を好きに使い、なんでも自由に話せていると思いこんでいるかもしれないが、本当は6つめ7つめの母音が存在しており、それが封じられてしまっているだけなのかもしれない、と思わせるということだ。

 これはSF的なアプローチといってもいいかもしれない。言語とはすなわち認知を指し、認知とはすなわち一個人にとっての世界を指すといえるため、拡張性が高い。テッド・チャンもまた、言語を基底としたSFを書いていた。

 では、果たしてぼくがリポグラム小説がとても好きなのかというと、そういうわけではない。むしろ大枠でいえば反対とさえいえるのだが、それはまたなにか機会があれば書こうと思う。