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全部読んじゃった

 飲茶先生の本、買ったぶんは全部読んじゃった。全部で6冊かな。

 どれもよかった。とても優れた、すばらしい作家でした。この先も買います。

 フェルマーの最終定理を基に、数学史、というか数学者たちのドラマを描いた本。歴史書とか解説書というよりもドキュメンタリータッチで、基底は説明行為にあるのに臨場感があってリーダビリティがとにかく高く、良著だった。

 冒頭で先生が述べていた「物理学や化学は、理論や公式の提唱者の顔がみえたり、現実世界でどう役に立つかが明確だから勉強に入りやすいのに、数学者は授業で数学者に触れることがほとんどないことが数学苦手意識の根底にあるはずだ」という弁は正しいと思った。ソフィー・ジェルマンなんかは現在の女性権利運動でも象徴としてよく名前が出るけど、その程度の意識というひとは多いし、高校生はほとんど知らないだろう。でもソフィーの話や、それ以外のあらゆる数学者の話がおもしろい。

 ブレグマンの著作を読んでいたときも同じ感想だったけど、出発点となる理念がはっきりとしていて信用できる作家はすらすら読めていい。著者のスタンスは積極的に本のなかで語られるべきだと思う。

 内容について。その当時は役に立たなかった基礎研究や思考実験に類するもの(たとえば非ユークリッド幾何学とか)が、その後の研究において一躍大活躍する理論や定式となるというのはまさしくそのとおりで、数学であっても科学であっても研究は大切だ。にもかかわらず、現行の日本において発言力のある政治家が「社会の役に立たない学部・研究は撤廃するべきだ」などと言っているのは、ほんとうに価値観が狭量だと言わざるをえない。

 そもそも、もしかりに役に立たなかったとしても、学問をやる理由は「それが楽しいから」だけでもいいはずだ。学問のおもしろさ、楽しさがまわりまわって社会をよくするだろうという考えもあるが、そこまで至らなくとも、人間がおもしろいと思い、一生を捧げるに値するような研究がなされる教育機関、研究機関はあったほうがいいはずだ。

 こちらは対話篇、小説寄りとなった著作。

 こちらもとてもおもしろかった。というよりも、生半可な小説家よりもずっとエンタメというものがわかっていておどろいた。そこらのつまらない小説を書く作家は、小説家ではない飲茶先生が基本を押さえ、なによりもキャラクターに真摯に接しているという事実をよく噛み締めたほうがいい。

 この話は三人の女子高生が、それぞれ異なる正義のスタンスを持っていて、その中央にいる主人公の男子高校生が、ともに受ける倫理の授業をとおして、なにが真の正義かを論じていくというものだ。

 ベンサム功利主義自由主義(およびフリードマンハイエク新自由主義)、プラトンに端を発する直観主義の3つをメイントピックとして、最後には哲学史として、ある意味西洋における正義論争に終止符を打ったニーチェ、それに次ぐレヴィ・ストロース構造主義フーコーポスト構造主義と、現代哲学まで話が及んで、フーコー流の「俺たちはつねに監獄のなかにいる」に対する主人公のアンサーが書かれて、話は終わる。

 ぼくが感心したのは、3人の女子高生にきちんとバックグラウンドを用意していたことだ。これはシンプルだけど、いちばん大事な項目だといっていい。つまり人間には、なにかしらこういう特徴のキャラクターを書きたいと思ったときに、そのキャラクターがなぜそうなったのかの部分まで解像処理できる人間と、そうでない人間がいるということだ。たとえばロリババアを書きたいと思ったときになにも用意せずロリババアをポンと出して好きに萌え萌えして遊ぶのではなく、なぜそのキャラクターがそうなったのか、その背景まで巻き込んで処理しなければならないはずなのだが、そういうことを毛頭考えることができない人間というのがいるし、そういう人間が平然とプロ作家面をしていることがある。

 これはべつにどういうキャラクターにでも言えることだ。悪を成すキャラクターはなぜ悪を成すのか、ほかの男ではだめで主人公にこだわる女はなぜ主人公にこだわるのか、すべてのキャラクターには存在理由が必要だ。なぜなら創作世界は現実世界よりも存在強度が弱いので、現実と違って理不尽なキャラクターは息ができないからだ(息をしているようにみえるのなら、それはそいつがキャラクターではなく人形だからだ)。現実にはなんの理由もなく会社をやめて実娘を殺してチベットに行く元サラリーマンがいてもいいが、創作世界では、そういうキャラクターは存在理由が求められる。

 もちろん、その背景の処理の仕方には作家の腕前が要求されるし、非現実的な処理をおこなえばそれは拙いと評されるのだが、それでもこうしたアプローチは必要なものだ。そして飲茶先生は、(おそらくだれに言われるまでもなく)それを実践している。「親が自殺を選んだ過去を持つ女子高生が、その親の選択、および止められなかった自分を正当化するための防衛的な思想として自由主義者となっている」これは立派な創作におけるキャラクター像の成立だし、先生はそれをきちんとやっている。

 さらに先生は、小説的なテクニックともいえる物語上の驚き、オチのようなものまできちんと用意している。やはり小説家を小説家たらしているのは、その肩書きなどではないなと思った。おもしろい話をする人間が小説を書けばおもしろいだろうに、というぼくの考えはこういうかたちで補強されていく。

 以下は内容について。

 フーコーの述べた監獄の話は、ぼくがまさしく高校のときに習った内容と同じで懐かしくなった。現在は、ぼくが高校生だったころよりも監視体制は強くなっている。ひと昔前までは、だれもが高性能なカメラを持ち歩いている時代など想像できなかった(フィーチャーフォンはあったから画質の悪い写真なら撮れたが、今はその比ではない)。

 AIがこれほどずば抜けた性能をみせる時代、だれもがコメントして世界に発信できる時代、だれもが監視用デバイスを持つ時代、こういう時代にフーコーのような知の巨人が生きていればなにを言うだろうと、素直に惜しく思う。

 なお、作中でも述べられていた「フランスと日本における知識人に対する敬意の違い」は、ほんとうにそのとおりだなと思った。日本はあらゆる点で、まだ全体が教化されていない。そしてこの先もされないのかもしれない。先生は当然そういう現状をわかっていて(これは予想だが、ある程度憂いてもいて)、それでもだれもが哲学や数学、科学といった学問に興味を持てるような解説書をたくさん書かれているのだと思う。これが、先生がこの世界に対しておこなっている、ニーチェがいうところのアートであり、善だと信じているもの、つまりは生きる意義のひとつなのだろう。」

 

 最後に余談だけど、ベンサム功利主義を基底にしたキャラクター小説を昔から考えていたので、ぼくがそのときに争点にするつもりだった問題が明らかにされていて嬉しかった。ベンサムの異常性はやっぱりかっこいいと思う。