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kokoha tekitou kousin blog jayo

むず

 かなり昔、だれかが書いたなにかで「官能小説がうまいやつはなんでもうまい」という主張を読んだことがあり、当時、納得していた。

 官能小説というのはある程度流れがパターン化されていて、それゆえに読んでいておもしろく感じさせるには、パターンにのりながらも筆致やキャラによって読ませる作者でなければむずかしい。濡れ場はさらに直接的に難易度が高くて、こちらはレトリック(技巧)になる。そして濡れ場とは「致されるべきところで致される」ものであって、王道から外れたような書き方では、その本来の役割を100%遂げることは至難となる。

 まあ、今のぼくが諸手を挙げて賛成するかというとひと口にははいともいいえとも言いがたいけど、少なくとも「濡れ場」という概念(盛り上がり的なクライマックスであり、楽曲でいうサビにあたる場所)は、つねに姿態をかえて適用されているものだとは思う。

 つまりぼくも戦闘ラノベなんか書いていて、ああ~ようやく最大の濡れ場は済んだな~みたいな感想は抱くということだ。

 それと、濡れ場はなくてはならないものだとも感じている。濡れ場がない官能小説は(おそらく)存在しないのと同じで、拡張された濡れ場がない小説は本来、存在しないべきだ。濡れ場がない小説を書くな、そして売るな。

 今のように、なんかまったくべつのやつを書こうとしているときも、結局濡れ場をどういうかたちで適用するかということを先に考えたほうがいいと思った。ようは濡れ場がよければそれでいい、というのが娯楽小説の極論なのだと思う。濡れ場以外が適当でもそこまで怒られず、逆に濡れ場さえしっかりしていればある程度は評価される。そういう短絡的な人間たちの世界なので。

 濡れ場を戦場にしたくないという概念と、そのノリで数年やってきてしまったんだから今さら戦場の濡れ場から逃げるな(戦場の濡れ場って何?)という葛藤がある。