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kokoha tekitou kousin blog jayo

日記とかいうもの

 思いのほか体調がよくなってきている、と自覚している。なにが要因なのかはわからない。ただぼくのからだは今あまりストレスを感じていないらしいことはわかる。主観的にいうなら平素よりもストレスがあっておかしくなさそうなのに、わからないものだ。

 読まなければならない本を整理しなくてはならないなと思っている。堆く積もった本のなかに、小説はそこまでない。そのかわり、あるのはすべて分厚い。そして読みづらいものが多そうだ。でも買ってしまった以上は読まなくてはならない。

 最近、有言実行という行為についてよく考える。おもな論点はふたつで、ひとつは言霊信仰に由来する。ぼくは言霊の存在をそれなりに信じている、あるいは信じようとしているため、有言という行為には、相応の意味がありそうだと考える。もうひとつは正反対で、本当にやろうとしていることは、べつに(自分に対しても含めて)どこかへ公表せずとも、勝手におこなわれる。どちらかといえば、ぼくの人生では後者のほうが多かったような気さえする。

 読む本を整理するにせよ、整理するまでもない順序にあるものは、おそらくこのまま消化されると思う。今はクンデラを読んでいる。クンデラについて今さら長々と感想を書いたりはしないけど、少なくとも読む意義があると思う。読む意義というのはむずかしくて、おもしろいと言い換えするのは少し違う。もちろん、おもしろいかおもしろくないかでいえばおもしろいのだけど、焦点はそこにはない。それが文学であると言われたらそれまでだけど、ぼくは今、あまりそういうまとめかたをしようとは思わない。

 クンデラの途中で、田中芳樹の小説を一冊とおった。おととし銀河英雄伝説をみてからというものどこかで先生の小説に触れなくてはならないなと思い、買っておいたぶんだ。こちらは意義がどうなどとはいわず、ただただおもしろい。そしておそろしく小説がうまい。

 きのう書店に行ったときに買いそびれたものをここにメモしておく。

 ユヴァル・ノア・ハラリが「個人日記という文化は消滅した」という旨の発言をしている。たしかハラリだったと思う。検索すればすぐにわかることだけどあえてしないでおく。

 とにかくハラリ以外にも言及していそうな、けっこう一般的な話だ。テクノロジー世界に生きるようになってしまったわれわれは、すべてをデータ化する。だからこのようにして個人的な事柄を世界に発信するし、それ以外の生き方を知らなくなってきている。この話の行き着くところはシンプルで、人間にはある種の内省というものが大切であるので、だれにもみられない日記を書くという行為に代表される内向的行為をおこなったほうがいいし、ハラリ自身のように瞑想して自分の心の声に耳を傾けるというのも、この文脈において奨励される。

 実際にその主張を正しく思うかどうかはともかくとして、少なくとも一理はある話だ。これは、少なくともぼくはおもしろいと思うことだけど、体外へ向けておこなわれる行為よりも、体内に向けておこなわれる行為のほうが、より事象に対して相対的であるように思われる。普通は対外的であるからこそ対照され、ゆえに相対化されるように思われるが、これは逆であるように感じる。

 ぼくの実体験でいうなら、こういう場所に出てきているぼくの言説というものは、じつは簡単な取捨選択の結果である。つまり、べつにこれはほんとうの意味でおもしろくないなと思ったものや、なんらかの理由でわざわざひとに読ませる価値を感じないものは、下書きに保管される。ここで新たな争点となるのは、日記とは読み返されることによって初めて日記であるかどうか、ということだ。それでいうなら、ぼくはあまり読み返さない。自分のなかにおいても、一時の体感をデータ化することはあまりない。さらに発展した話をするなら、「データとして格納した」という行為そのものが、ぼくの基準におけるデータ化のすべてであり、Query(クエリ)は実際的な意味を持たない。ほとんど持たない。

 ぼくが十五年前に書いていたブログのデータも、今はほとんど保持していない。それらは海の藻屑となって消えている。十五年どころか、五年前のものでさえも消えている。でも、そのことについてぼくはたいして思うことがない。それを踏まえるなら、この行為のデータ化という概念が、果たして正しいのかどうかもわからないように思う。