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ストーリーが世界を滅ぼす

 ジョナサン・ゴットシャルの著作を読み終わった。

 あした早いというのにあと少しだからと気合いを入れて読み進めていたらこんな時間になってしまった。

 とはいっても、名著というわけではなかった。ひとつのテーマを扱っているにもかかわらず内容は漠然としていた。理由は明白で、解決策を提示できていないからだ。つまりデータの羅列に過ぎず、本書には指向性がなかった。その「指向性をもって語ろうとしない」姿勢は、著者がストーリーに危険を感じているからだと弁明できるわけではないと思う。なぜなら著者もまた、ストーリー性の悪を説くためにストーリーを使わざるを得ないと自覚しており、序盤にそう但し書きしていたからだ。

 スタンスとしてはポストトゥルースそのものとなる。われわれは大きな物語をなくした。そして今は個人が個人にとって都合のいい物語を好きに語り、好きに聞くことができる。ストーリーバースという著者の造語は、単にそのまま世界観と言い換えて差し支えない。

 大きな物語をなくそうが、個人が物語を持とうが、われわれは語る生き物であり、ホモ・フィクトゥスだ。現代においては、われわれが種として生き延びることができたのは、虚構を共有できる、すなわち、神話や物語を創出できるからだということで、おおよそ意見は一致している。この一定量の紙切れがべつの場所で好きなものと交換できるという謎の嘘っぽい話を全員が信じていなければ、紙幣も金融も存在していない。

 問題は、解決策がないことだ。

 これにかんしてはほんとうにない。プラトンは虚構による世界の支配を嫌がっていたが、だからといってプラトンも回避できたわけではなかった。人間が人間である以上、回避できない。物語というのはわれわれの身体そのものだといってよい。

 アメリカ合衆国で大変盛んな陰謀論を筆頭にして、多くの個人的な物語は悪性を帯びている(無論わが国でも大流行りである)。メディアというものは「きょうはこんなにいいことがありました」という内容のニュースを作らず、つねに悪い方面を照らす。優れた物語には敵と味方が古くからある二元論のように姿をみせて、その「普遍文法」を免れていない。著者は、フィネガンズ・ウェイクを大半の人間が読み下しできないのは、あれが普遍文法を抜け出そうとして書かれたものだからだと述べている。

 こうした一連の主張を読んでぼくが思ったことは、やはりルドガー・ブレグマンの清廉な眼差しをもったアプローチだった。われわれが語ること・語られることしかできない動物であるのならば、少なくとも良識があり、こう語れば人間はよくなると信じることを語り続けるしかない。つまり悪のエピソードを語り続ける人間がいるのであれば、同等以上に善のエピソードを語り続けるしかない。

 ブレグマンはそれがよくわかっていて、だからこそ世界にはホッブズ的世界観と、ルソー的な世界観のおおきくふたつが存在しており、科学的なデータを手に自分のスタンスを明かし、懸命に語り続けたのだと思う。そして、ぼくはそういう姿勢を正しいと思っている。

 ところで本書を読みながら、ぼくは前から気づいていたある事実について考えた。

 科学的データというものは、真実ではない。それは物語に説得力を持たせるための一節に過ぎず、データそのものをみて真実だと考えられる人間はいない。本質的には、すべてが信仰だ。その意味で、地球平面説の始祖である”パララックス”ことロウボサムと、ギリシア哲学と自然科学的な見地が入ってきたことによりキリスト教的な世界観が危ぶまれてスコラ哲学を生み出したトマス・アクィナスに、大きな違いはないと思っている。あるいは、もとは宗教原理主義的な思想から唱えられ出した地球平面説と、ぼくのようにさまざまな常識・学説・科学的知識(経験)を持った人間が唱える地球球体説に、本質的な違いはないともいえる。常識・データ・経験というのは、真実にはなりえないからだ。科学、あるいはデータというものは、物語という一義の裏側にひそんで、それを応援するだけの些末な要素にすぎない。

 だから日本は侵略国家ではないと信じているひとびとがいる。太平洋戦争はアジアを救うために大日本帝国が踏み出さざるを得なかった大きな一歩だと信じているひとびとがいる。真珠湾攻撃にはなんら卑怯な側面はなく、開戦は致し方ないものだったと考えているひとびとがいる。そしてかれらと、(こういう言い方をして正しいのかわからないが)ぼくらは大きく断絶している。

 解決策はない。

 人間は自分のみたいものをみるし、みたくないものはみないからだ。自説を否定するデータもあれば、裏付けるデータもある。そして好きなほうを参照することができる。

 この4000年ほどずっと人類がやってきたことで、それは明白にこの10年のあいだソーシャルメディアによって加速させられたことではあるが、まあ、今にはじまったことではないのはたしかだ。ぼくはTwitterを筆頭にソーシャルメディアは毒性のほうがはるかに強くなってきていると考えているし、法制化したほうがよいと思っているけど、たぶんそういう流れにはならない。

 毒を喰らわば皿まで。人類はこのまま皿ごと毒林檎を食うことになると思うが、腹が強ければ問題ない。