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kokoha tekitou kousin blog jayo

かなり感動した話

 きのうは出先で時間をあわせて、昼食どきに生後1年の甥に会った。赤子は会うたびに表情が増えていくからすごいなと思う。

 それはともかくとして、感動したことがあった。

 彼は剥けたバナナのかたちをした歯固めを持っていたのだが、それを机の上に立てて置くと声をあげて笑うのだ。もちろんまだ不器用だから、横に倒した状態で置いてしまうこともあるけど、横だと笑わない。縦にうまく置けると、爆笑する。

 ぼくは思わず「すごいな、きみは!」と言ってしまった。

 世界的には、というよりも量子的な状態としては、バナナのかたちをした歯固めが縦に置かれていようが横に置かれていようが、ほとんど差異はない。

 そこに差を見出すのは、人間の価値観だけだ。横になっていたらなにもおもしろくないが、縦だと急に価値があるような気がして、すばらしく思えてきて、笑うのだ。なぜか? バナナの形状からして、普通に意識せずにポンと置いたり、あるいは投げてみれば、だいたいの場合は横になってしまう。よほどの偶然か、あるいは人為によって働きかけた結果でないと、縦状態にはならないのだ。つまり、横だと普通だからつまらなくて、縦だと特別だからおもしろいのだ。そこには、人間の意匠がかかわっているのだ。

 つまり、まだ言葉を持たずとも、彼には価値観が宿っていたのである。独立した主観であり、パースペクティブを有していることを証明していたのである。

 ぼくは、たとえば彼が積み木を倒して笑っているのをみたとしたら、そこまで感動しなかったと思う。積み木が倒れることには、まず視覚的な派手さがある。よりプリミティブな感情であって、芸術性ではないように思えるのだ。

 あるいは彼が、押せば音の鳴るおもちゃのボタンを夢中で連打していたとしても、やはり感動しなかったと思う。これも積み木の倒壊と同じで、(視覚と違って聴覚だが)動的な楽しみだからだ。

 だが、バナナのかたちをした歯固めは違う。これが立っているか横になっているかには、たいした派手さはない。そして静的な状態だ。究極的には、彼がいい絵画をみたときには笑い、駄作の絵をみたときにはシラケていたというのとかわらない。

 まだ1歳にもなっていない知性が立派に芸術性を理解して笑っていることに、ぼくは感動した。

 

 ぼくのやっていることも、本質的には変わらない。

 ぼくはずっとバナナが縦に置いてあると嬉しいが、横になっているとつまらなくて真顔になっている、ということをやっている。

 ぼくと彼のあいだに違いがあるとすれば、ぼくはこの30年で、物事のどの状態がバナナでいう縦状態なのか、横状態なのかという判断の幅が広がっていったことだが、それでも根の部分は明確に同じだ。

 バナナは、縦になっているほうがいいのだ。

 なぜか?

 そのほうがおもしろいからだ。