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kokoha tekitou kousin blog jayo

身体言語

 東洋哲学の概説がすさまじくおもしろい。自分のこれまでの老荘思想に対する理解の甘さを反省した。もっと良著を探して読みたい。

 ところで、老子および龍樹の思想(「道」と「天」)について読んでいるときに、ふと思ったことがあった。

iquo-loka.hatenablog.com

 この記事でぼくが書いた、自分が小説を書くときのぼんやりとした無意識性(自分が書いているはずなのに、自分が書いているように思えない状態)は、わりと無我に近いのでは?

 と書くと、お前ゴトキがたかだか創作をしている程度の動作についてなにを大層なことを、と自分でも思うんだけど、それでも、どうしてもメカニズムが似ているような気がしてならない。

 自分のからだの一挙手一投足を意識して動いている人間がいるわけないだろう。一流のアスリートも、いや、一流のアスリートだからこそ、からだが勝手に動くのに任せるままでいて、それが最高のパフォーマンスを発揮するということはあるはずだ。

 名作シグルイでは、牛股権左衛門が死亡したあとに駆動した描写について「筋肉とて人を恨むのだ」とナレーションが入っている。

 ウパニシャッド哲学における「踊り子と観客」の喩えでいうならば、これは踊り子としての肉体が勝手に動いているだけなのではないのか? そしてそれは、ある種の無我、ある種の無為自然と呼べるのではないのか? と、ものすごく素朴に思ってしまった。

 ぼくは寡作である(これは認めよう)。そして、頭で物を書いているときほどおもしろくないときはない、という持論がある。話は勝手に書かれるべきであり、そこにぼくの意志は介在していない。つまり、書かなければならないと頭で思って頭を動かしているときには、ぼくはすぐにやめてしまう。

 これは自信を持って言えるが、およそ5年前、デビュー作の応募原稿を書いていた時期が、ぼくが人生をひとりで過ごしている時間でもっとも楽しい期間だった。あの12日間がどういうものだったのかを、今のぼくは正確に思い出すことができない。あのときは小説を書き、気がつけば18時間が経っており、寝食をし、起きたら書き、18時間が経っており、寝食をし、という速度と純度で、物を書いていた。

 もちろん、その期間中にまったくものを考えなかったわけではない。後半、細かい理屈が必要とされる部分では、この先起こりそうなことをメモ帳ツールにリストアップしたし、その記録はデータとして残っている。でも、書くことを中断して考えなければならなかったときのことは覚えているのに、書いている最中のことは覚えていない

 30歳にもなって東洋哲学から自分の所作をまじめに考えるというのもなんだか嫌な感じがするが、それでも、ぼくが経験してきた現象のいくつかは、あまり言葉で明瞭に理屈を説明できるものではないのもたしかだと思う。

 もしも「肉体に任せる」が正解であるなら、それをすることになんら抵抗はない。

 

 最後に、さらに東洋哲学に繋げるならば、「ぼくの扱っているものが言葉である」という事実はおもしろいと思った。なぜなら、老子であれ龍樹であれ、あるいは仏陀であれ荘子であれ、悟りにおいて障壁となるものが言語であると思っているからだ。

 言語によって認識し、言語によって、どうやら無我というものが存在していそうだということを理解する。だが実際に無我へと至るためには、その言語が、世界を切り出すための認識のツールそのものが邪魔となる。

 忘我しながら物を書くというのは、その意味で矛盾したおこないであるように思う。あるいは物を語らないだけで、肉体は言葉を識っているのだろうか? もしもそうだとして、正直ぼくはまったく驚かないというのが、今の実情だ。