lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

 タイトル思い浮かばなくてとうとう「あ」にしてしまった。もうやりません。

 きのうは1万字くらい書いた。いや、そこまでちゃんとカウントしていないけどそれくらいだったと思う。だが無性にウマ娘がやりたいなと思って、しかたがないから風呂でやっていた。人生の癒やしを全部サトノダイヤモンドに託していないか?

 ありがとうサトちゃん

 

 以下、なんか適当に。

 北方謙三先生のインタビュー動画をみた。

 ぼくがおもしろいなと思うのは、小説家は全員、うだうだとべつのことを言いながらも、最後には共通して「書け」しか言わないことだ。

 小説というのは奇妙なもので、書く動機、書いている最中のやりかた、接し方、もろもろすべてが異なるのに、最終的に「文章だけでなにかしら表現しているもの」というかたちで同じようなパッケージの商品が生まれる。 

 でも、工程は違うのだ。

 だから唯一、総則的に抜き取れるのは「完成物を出せ」だけになる。

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 で、その言い分はおそらく正しいのだと思う。書くしかないので、書く。これもまたおもしろくもまた奇妙な話で、自分が書いたものを愛でてしまうと、なかなか次にはいけなくなる。大事だから書くはずなのに、いざ書き終わったらあまり大事にしてはならないのだと思う。つまり、みずからのものを作品と捉えてはならないのだと思う(まあ、それを抜いたとしても、ぼくは自分の書いたものを作品と呼ぶのはかなり抵抗があり、いちどもそう呼んだことはないのだが)。

 問題は書き方、継続の仕方だ。

 継続する条件のひとつに「からだの強さ」は、ひとつあると思っている。村上春樹先生も、駆け出しのころに「これは体力がなきゃいけない」と気づいて、マラソンをはじめたと言っている。ただ、これは実際の筋力、肺活量的な話というよりも、精神的なスタミナなのだと思う。つまり実際に書いていてカロリーをものすごく消費するわけではないのだが、かわりに、精神の不明瞭な部分が削られていって、ふと自覚したときにやめたくなったり、休みたくなったりする。そこで耐えられるかどうかというのは、マラソンにおいて途中でやめずに自分の決めた距離を走りきれるかどうかの、あの最後の精神力の部分と似通っているのだと思う。

 まあ、ようは心身ともに健康であれという話なのだけど、これがむずかしい。「じゃあ病気のお前無理だろ」というツッコミが入りそうだけど、やはり主体は精神の部分なので、じつはそうというわけでもないと思っている。少なくともぼくがデビュー作を書いたときは、今よりも数倍は数値が悪かったわけだし、そのあたりは言い訳にはならない。

 精神の筋トレというのは、こうなってくるといよいよ鍛え方がわからない話だ。マラソンするのもいいとは思うが、それだけで済むようにも思えない。ウパニシャッド哲学をやればいいかというと、そうでもない気がする。好きなものこそ上手あれというのは正しくて、書くことを好きであり続けるというのが近道であり、奥義なのだろうな。

 ところで、動画のなかで北方謙三さんが「本を読んでほしい」と明言するシーンがあった。ぼくは、人間の本の接し方について、わりとこれまで二転三転した考えを持っていたけど、今はさまざまな情勢を鑑みて、やはり読んだほうがよいのだと考えている。それはぼくが小説を書くからお客さんが増えてほしいというよりも、そうなってもらったほうが最終的にいいことだと思えてきたからだ。

 大きな切り口でいうと、社会的な問題の多くは想像力の欠如に起因しているといえる。想像力というのは包括的な概念で、自分の知っている単語を増やすというのもひとつであるし、歴史を勉強するというのもひとつであるし、さまざまな方法があるのだが、最大の鍛錬は、やはり自前の演算装置(脳)を使ってシミュレーションすることだ。

 文字だけで情報を理解し、頭のなかで再現し、解釈し、記憶する。この四つの工程を同時に踏めるのは、意外にも読書くらいのものなのである。わかりやすくいうと、頭のなかが広がる。ぼくは映画も漫画もゲームも好きだけど、このトレーニングは、どうやら読書にしかない。なんであれ映像作品は、すでにコンパイルされているからだ。だから、読み物は潰えるべきではないのだと今は思う。

 先人クリエイターの言い分をまとめて総則を取ってみるというのは、べつに目的がなくてもたんに興味本位レベルでおもしろく、それなりにやっている。

 宮崎駿監督の「無意識でやれ」というのは、哲学的でおもしろい話だ。

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 なにかしらアイデアを出そうとするとき、世間的に天才とされる人間であっても、基本的にはポンとは出ない。だから死ぬほど考えて考えて、有意識が無理だという返事をして、それでも考えて考えて、最後に無意識が仕事をするのだという。

 このブログに残している雑記でも書いたが、この「無意識」は、アマチュアだろうがプロだろうが、なにかしら書こうとしている人間にはピンとくる話だと思う。

 なぜなのかわからないが、最終的にましな仕上がりになったと思える小説ほど、大半は無意識が仕事している。まるでなにかにやらされているみたいに、そうなっている。「理性で書いたものはつまらない」と宮崎駿監督も言っていて、ぼくも同じように感じている。

 そういえば、上の北方謙三先生の動画でも、小説を書くのに余計な雑念を混ぜるなという旨の話をしていた。「まず書きたいという衝動があり、書いてからどうするか考える」。新人賞を取りたいという理由で小説を書かないでほしいという、いつもの話である。

 衝動は、理性の逆だ。ぼくの場合、それがわかってしまっているから、衝動を覚えるまではあまり書かなくていいかという逆の発想をしてしまい、けっこう停滞していたという問題もあるが、とにかく、理性よりも衝動や無意識のおこなう仕事のほうがおもしろいというのは、まちがいないように感じる。

 そう、ぼくは理性で書いた、行儀のいい小説というのは好きではない。うまいへたというのは、そういう部分にはあらわれないと思っている。そういうものがあらわれるとしたら、書き終わったあとの編集の部分だ。

 大家(とされる人々)の言っていることが、根の部分で繋がっていたりするのはおもしろい。創作とは一般に教科書のない行為だと思うが、それぞれの言っていることを噛み砕いていくと、わりと同じことを言っている節があり、それは総則として捉えてよいのだと思う。

 

 ところでこれはまったく余談だけど、北方謙三先生は万年筆でないと原稿が書けないのだと言う。

 デバイスや様式によって意識のスイッチがかわるというのはよくある話だ。

 ぼくの場合は、掲載媒体で明確に雑記を残す意欲が変わる。ブログがいちばんやりやすくて、過去に同じくらいやりやすかったのが、もうなくなってしまったツイッターのフロート機能だった。noteやインスタグラム、カクヨムやNotionの共有機能など、これまで目についたものは全部お試しで使ってきたけど、これらにも大きく差は出る。

 理屈はとくにないのだと思う。なぜか知らないけどそうなっている。