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kokoha tekitou kousin blog jayo

その肉を焼け

 わざわざスマホから写真をアップするのがだるいので写真は割愛する、もしくはインスタグラムにあげるけど、昨日は焼肉に行った。そのあとオールになった。

 前も書いた気がするけど、飲みに行く頻度が極端に減ったかわりに、行くとだいたい朝までコースになっている。もう無理できる年でもないのでシンプルにつらい。毎回書いているけど次からは自重します、体調悪いんだってばよ。

 なぜ映画ソーシャルネットワークが名作なのか、なぜプロメアは超がつくほど問題のあるシナリオなのか、リコリコがなぜ人形劇なのか、レディプレイヤーワンのどこが卑怯なのか、ワンスアポンアタイムインハリウッドおよびイングロリアス・バスターズはなぜタランティーノの作家性が濃縮されている名作なのか、等々を長々と人に説明するにあたって、自分で自分が嫌になる感覚があった。

 普通のひとはそこまで映画やアニメをガン見しない。ぼくはガン見しているから問題に気づく。本当はそんな事実に気づかずにぼんやりと眺めてぼんやりとおもしろいと感じていたほうが幸福なのかもしれないと思う。

 もしもその性質が人間を幸福にしないのであれば、どのような性質にも価値はない。ぼくがガン見した結果なにがどうなっているかというと、ぼくはぼくの書くものを書くようになっている。ぼくは、ぼくの書いたものが、8割の人間がそうするようにぼんやり見ていようともぼんやりおもしろいと思えるようにしているし、残る2割の人間がガン見しても、なんとか視聴に耐えられるように作ろうと努力している。

 でも、それだけなのである。その「だけ」にいかほどの価値を見出すかという話なのだ、これは。ぼくはぼくが書くようなものを書いていて幸福なのだろうか?なにかしらアイデンティティを見出すようになっているかもしれずとも、それは幸福と呼べるものなのか?

 男の性欲を満たすための言動しかしない女が狂態・痴態を演じる図を書いて幸福になれるのであれば、そのほうが遥かにましなのではないか。

 こういうたぐいの話は、結局時計仕掛けのオレンジへと還る。認知を変えて幸福になろうとするタイプの話にはむなしさがある。

 今後はああいう話はあまりしないようにしようと思った。