lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

ポンポさん

 を、みた。ようやく。

 常日頃から自分が抱いている感想を反芻させられるタイプの映画だった。あえて正直に書くと、ぼくは、ぼくの規定している部分におけるリアリティを捨てている話が得意ではないので、そういうあたりで前のめりにはなれなかった。

 そのリアリティというのは一義的な説明がむずかしくて、べつにポンポさんを含めたキャラデザや言動、細かい部分の描写がコミカルであるというのはかまわない。そういうあたりはむしろあったほうがいいと思う。テーゼ自体も問題ではない。この問題をわかりやすく言おうとすれば、描写の仕方そのものに逃げが感じられるかどうかなのだと思う。

 映画は総合芸術だ。音楽であったりカメラワーク、カットの仕方を含めた演出であったりというものが総合的に作用する。問題はその総合的な演出が装飾であるのか、粉飾であるのかなのだろう。

 ある映画(≒虚構)が優れようとすれば、免れないのは優れたキャラクターになる。映画を含めたすべての虚構は、そのなかの架空の人格を演出するための補強物に過ぎないというのはぼくの勝手な信条だけど、優れたキャラクターが優れたキャラクターであるためには、その話のなかで処理されている法則のなかにおいて現実的なキャラクターであることが大切であるというのは、どのようなクリエイターにとっても言える話なのではないかと思う。

 では創作においてなにが逃げなのかというと、その話のなかで生きている(とされている)キャラクターの動きに無理やり働きかける力のことを言うのだろう。そういうものが介在してしまうと、それはキャラクターを虚構のなかでさえも生かさなくしてしまうと思う。

 べつに感動的な音楽が流れたからといって感動しなければならないわけではない。感動すべきシーンに添えられる最適化された音楽に感心するべきであり、その逆ではない。

 これはぼくが本格ミステリをたくさん読む大学のサークルにおいて丸1年のあいだ本格ミステリの批判をし続けていたときから変わらないスタンスだ。「お前らはタイトルに『これはおもしろい小説です』と書いてあったらおもしろいと思うのか?」当時とかわらないことを今も思っている。

 映画に救われた人間が、映画に救われた人の話を撮る。

 これはよくあるテーマだ。引退直前(とされている)のタランティーノもやったし、故・ボグダノヴィッチも最後の作品でやっている。テーマ自体は、ぼくはかなり好きなほうだと言っていい。

 タランティーノのおこなった「救い」は、ひとつの理想形と呼べるものだったと思う。タランティーノのスタンス、映画という虚構と、歴史という現実の境界線に向ける視線、バランス感覚は、ぼくは非常に優れたものだと思っている。タランティーノは、第二次世界大戦を舞台にした映画で1944年にヒトラーを殺すことができる。シャロン・テート殺害事件を取り扱った映画で、シャロン・テートを殺さないでいることができる。タランティーノの祈りは、虚構を虚構としてみなす姿勢に根差している。彼の撮る映画は、彼の持つメタな視点から逃れることができない。

 この日本のアニメ映画に、映画に救われた人間の話を撮れただろうか? そういう視点を、pixivで連載されたショート漫画が原作の映画に向けるのは酷なのか? いや、たぶんそういうことはまったくない。すべてがお膳立てされた、元々才能を有していた主人公がデビュー作でアカデミー監督賞を受賞する。声のかわいい声優が、よく動くかわいい絵面のアニメーションのうえで演技をおこない、それらはすべてハイレベルにコミカルであり、たった90分で終わってくれて、観客はノンストレスに席を立つ。

 やっぱり映画とはいいものなぁと思いながらAmazonレビューを書く。

 娯楽映画の娯楽性というものはそういう部分に成り立っているのか? ぼくにとっては、けっこう考えさせられる映画だった。