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kokoha tekitou kousin blog jayo

思想ワン

最近思うこと1.

 人間は信仰する側とされる側に分かれている。ただこれは信仰されるから偉い、スゴイというのではなく、どちらの側にもメリットとデメリットがある。生まれついて信仰されるべき人間が信仰されているケース、生まれついて信者になる才能のある人間が信者をやるケース、このいずれかが幸福そうに見える。

 推し概念は非常にゆるいかたちで芥川賞などによりブンガク化されたけど、本来はもう少し由々しき事態を明かすものだと思う。宗教のなりたちが、最近は言葉ではなく心で理解できている。安い物の見方だけど、ついぞ信仰され得なかった側のルサンチマンが置換されて、推す行為そのものが聖なるおこないとして処理されて、うまくバランスを取っているように見受ける場面もある。

最近思うこと2.

 文章を読み、その内容を正しく理解するというのは後天的に獲得される高等技術であり、人間が生まれながらにして所有している能力ではない。おしゃべりとは違う。ひるがえって、論理性というものも明確に後付けに過ぎない。人間は感情にはじまって理屈に終わるだけの、そういう整合性を取っていくだけの悲しき生き物。

最近思うこと3.

 昨今話題のマリオ映画の文脈でレディプレイヤー1にかんする言及を多々見る。

 ぼくはレディプレイヤー1公開当時、かなり怒っていた。というのも、べつにあれが、

①なんとなく絵面がSFっぽければSFだと認識して、

②細部にアラどころかパッと見で欠損している設定に気づけず、

③自分の知っているキャラクターが出てくるだけで嬉しくなるタイプの、

そうした全体の視聴者の70%〜80%くらいを占める素朴な層を狙い撃ちにした映画だから、というだけではない。あの映画が、残るきちんと観賞しようとする20%をあまりにもないがしろにした映画だからだ。

 娯楽作品を作るとき、大衆迎合という概念から逃れることはできない。だれがなんといおうと、どれだけ不服であろうと、お客さんの7割近くは映画を観ることができない。これは悲しいけど事実だ。では彼らが映画をどうしているかというと、単に眺めているだけだ。

 それは、じつは悪いことではない。映画を、ないしは映像を眺めて楽しむ。べつにそれでいい。彼らがお金を落として市場は回っている。

 これは映画にかぎった話ではない。漫画であれアニメであれ、あるいは小説であれ同じだ。多くのお客さんは、それらを正確に読んだり、観たりすることができない。ただ眺めている。ただ眺め、満足している。何度も言うが、べつに悪いことじゃない。

 なぜなら、そもそもが虚構であるとわかりきった話に対して、本当に強く興味を持てる層というのは、どうしたってマイノリティだからだ。映画を眺める層は、嘘の話=創作物に対して、そういうスタンスで臨んでいる。で、彼らは立派に社会生活を送り、自分の口に糊したり、家族を食わせたりしている。自分の専門の仕事にかんしてはある程度の知見を持ち、もし殊勝であるならば、政治経済などにも多少は興味を抱いている。

 だから、彼らはべつにそれでいい。問題は、残された2割だ。彼らは映画を眺めるのではなく、観る。矛盾や欺瞞があれば、当然気づく。べつにハリウッド映画にガンダムが出てきたからといって、それだけで喜ぶわけではない。人生の時間を2時間使い、2000円支払った以上、意味のある体験として映画を処理しようとする。

 彼らはマイノリティだ。だからレディプレイヤー1の制作陣は、あくまで売上的には彼らを無視することもできる。7,8割に満足して帰ってもらえば興行収入は出るし、大きく評判にも障らない。

 だからこそ、マイノリティを大切にしなければならない。これは信義則の話だからだ。映画を眺めるのではなく観に来た層に報いる必要があるというのは、信義誠実の話だ。

 そう、レディプレイヤー1には誠実さが足りていない。次世代の制作者は、この2割の層から生まれていく。映画を眺めている層からは、売上という俗世から離れた、真に価値のあるものは生まれようがない。より厳密にいうなら、その価値を問おうというスタンスを持って物を見ようとする人間たちが生まれない。これは文化保全の話だ。

 8割の大衆が眺めて満足するものを作るのはいい。ただし2割のほうにもじゅうぶんに気を遣うべきだ。それがむずかしいことはわかっているけど、少なくともレディプレイヤー1が作中でやったような、サイエンスフィクションをバカにしているとしか思えない設定の数々が、2割の人間が目くじらを立てないものに変わったとしても、8割の眺めている層は、べつにどうとも思わない。つまり、可能なかぎり10割が満足するように作るということ自体は可能だ。

 もちろん実際問題として、どの層も満足する作りというのはむずかしいのだが、それは結果の話であって過程の話ではない。そういうふうに努力することは可能であり、そしてもしも努力していたのならば、レディプレイヤー1くらい底の抜けてしまった物は作られようがないという話だ。

 だからぼくは怒っていた。拝金主義なのはべつにかまわないが、それにしたって信義則に欠けすぎている。一切の誠実さがない。

 ある種のモラル問題は、受け手側ではなく創出する側に求められるものだ。今、5歳で様々なものを楽しんでいる天才クリエイターの少年を想像しろ。彼がまっとうに成長して、将来すばらしいものを作れる人間になれるようなものを、お前が作れ。お前には責任がある。