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ぐだぐだデイ2

 とある偏差値50帯くらいの理系大学で物を教えている知り合いから、最近の学生事情について少し聞いた。80%くらいがchatGPTの存在を知らないとか、作文において段落を分けるという概念を知らないとか、本当にまったく読めない文章が出てくるとか、そういう驚く話が飛び出た。

 パソコンに触れたことないくらいのことは知っていたけど、スマホでも情報にはリーチできるわけだし、逆に雑多な知識は増えているかもくらいに思っていたけど、べつにそういうことはないらしい。

 ぼくは、自分の書く小説は中学生でもちゃんとわかるように書いているつもりだったんだけど、もしかすればそういうわけではないのかもしれないと不安に思った。

 だとすればゆゆしき問題なんだけど、でもだからといってまさにこれだと思って書く文章を変えるかといえばうなずけるわけでもなく、むずかしい。

 ライトノベルくらいのごく簡単な娯楽小説でも、わざわざ手を取ろうとしているのは上澄みになっているのかもしれない。と考えるとべつに不自然なところはなく、書くほうであれ読むほうであれ、文章アレルギーなのだとしたら動画だけ見るという風に落ち着いてもなにもおかしくない。

 かりに高校生を書くなら高校生に読んでほしいという一番底の部分の素朴な欲求があるけど、そういうわけにもいかないのかもなぁ。

 彼ら自身の生まれつきの頭が悪いということはもちろんないけど、しかし価値判断の基準というものは食べたものによって時間をかけて養成されるものであるから、やはりそのへんの進みが遅くなるというのは切実な問題のように思える。