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書けることない現象

 6月7月の低迷ぶりがすごい。これまでになく鬱っぽい気概を感じており、ぜんぜんやる気が出ない。非常によろしくないとは思っているんだけど、意識的にそう思ったとしてもべつにどうにもならないという。

 サブカルチャーコンテンツ全体に対する失望みたいなものに苛まされている。文化産業というビッグゲームのしょうもなさを、売り手側ではなく買い手側で感じている。ゲームはおもしろいんだけど、本当にゲームだけという感じがする。なにかほかに楽しみを見出したほうがよさそうなんだけど、でも根からのサブカル人間だったわけで、どうすんべこれからという感じがする。

 創作には少々思うことがあり、たった今はそこまで腰を上げる気にならない。昨晩スペースで少人数相手に好き勝手しゃべっていたらわりとおもしろかったというのもあり、そういう方向でやってみるのもありかもしれないなとは思っている。

 本は國分巧一朗先生のものを読んでいる。

 暇退はおもしろく、また読みやすい。先生の著作はぜんぶ追おうと思う。中動態の著作にかんする問題などがあることは知っているけど、それだけでほかが全部だめになるわけではない。

 途中の「疎外」と「本来性」に注目した労働史観がとくによかった。「人間は本来こういうことをする生き物ではない」という新たなる価値観がルソーによってもたらされて、それを受けてヘーゲルは本来性に基づく労働史観について述べたが、それを机上の空論であるとマルクスが退けたにもかかわらず、マルクスを批判するために論文を書いたホッペンハイムも「本来性」の史観に囚われていたため、史的に一貫した批判ができなかったという一連の話。

 「本来性」に対する危機意識の提示も、ぼくにとっては新しい指摘のように思えた。そもそもそれがどういうものであったか、という論調はぼく自身このんで言及していくタイプの切り口だったけど、言われてみると厳しい価値観であるように思える。ルソーの述べる自然状態も、現実の問題を浮き彫りにするための空想的な観念だったから、現実に再現可能な状態ではないし、ルソー以降のわれわれには「真の〇〇」などという便利で美しい概念は存在しないというポスモダ的な共通認識が生まれているのも頷ける。

 あとほかに気になっているのはこれ。どれくらいの強度で書かれているのかよくわからないけど、さらっと復習するぶんにはよさそうだし、新しい学びもありそう。

 去年日本史を再学習したいなと思って2冊くらい通読したけど、またもやぼんやりしてきたのでなにかしら読みたい。歴史哲学あたりの読み物を継続的に消化したいという欲求はある。とくに昭和史かな。

 最近よく言及しているんだけど、文章に対する感動がおもに学術書のほうに全振りされている実感がある。國分先生もお上手だ。文章はとにかく読みやすくて簡潔なもののほうがよいと思う。ぼく自身が放っておくと悪文を書いてしまうタイプなので、あこがれがあるのだと思う。とくに今は校正原稿を直している最中だから、自分の書く文章の欠点に気づかされがち。いいところもあると思うんだけどね。

 でも昔よりは自分の文章に対する満足度は感じられていると思う。ターニングポイントはあきらかで、①英語の学習をはじめたとき、②商業出版したとき、の2回だったように記憶している。英語という言語の情報伝達に特化した機能性と、商業出版したことで嫌でも復習を強制させられたことによる意識変革は経験として大きかったな。

 美文悪文に対する嗅覚自体はそう変わっていないと思うけど、なにゆえそれを良い文章だと感じるか、悪い文章だと感じるかという基準が自分のなかで明確化されたというのが自信の裏付けになったのだろうな。感覚は間違っていなかったけど、それでいて感覚だけに依らなくなった。

 なんとなく、まだ文章を書くという行為にかんしては発展途上で、これからも改善の余地があるようにも思っている。最近は語彙力の低さを痛感しているので、まだまだ勉強が足りていないのだろう。

 でも語彙力って多読以外で身につくものでもないよな。

 眠れなくてこんな時間だけど、もう少しだけ読んだら寝ます。