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kokoha tekitou kousin blog jayo

寝ていた

 疲れがたまっており、1日じゅう寝ていた。日銭稼ぎはさぼった。

 自分が中学1年生のころだったらひょっとして魅力的に思えたかもしれない、ただ迂遠なだけの悪文を読むと非常に頭が痛くなり、それと同時に、結局この世界は最終的に他者を気にしたらよくないのだなと痛感して、そっと本を閉じるなどしていた。

 なにをもって美文とするのかという基準の話はわりとしているほうであり、かつ語り尽くした感があるので、もうあまり触れることもなくなりそうだ。

 今のぼくは、たとえ小説においても、文章というものは情報伝達のための部品的な手段であるという鉄則からは逃れられないと思っている。たとえば高橋源一郎氏などの著作でいっても、伝達内容そのものが難しい文学というのはあれど、伝達の手段そのものがただ迂遠であるものは、どの世界でもそう認められなかったのではと思う。フィネガンズ・ウェイクでいっても、あれは前衛芸術であって、内容を語られるべき文学ではなかったように思えるのだ。あるいは夢野久作でいっても、結局のところセンテンス単位で意味が掴みづらいという話ではない。

 何が言いたいかというと、美文とはきっとシンプルなものであろう、とぼくが信じていますというだけの話だ。ちなみにぼくは生来が迂遠に言いまわすタチであるので、矯正の結果これくらいにおさめているという自覚がある。

 文法的にわかりやすくするために削ぎ落していったときに、それでも最後にどうしても残ってしまうものが、著者の特有のにおいであって、わざと醸し出すものではない。さらにいうなら、小説における著者の特徴というものは、どちらかといえば文章を書き出す前の、「ここを彫ろう」という当たりをつける段階で決まってしまう話だとさえ思っていて、一文に着手したあとの領域には、たいした差異は残っていないようにも感じる。

 ぼくとて校正のときは、この読点を取るかどうか、最後まで悩み抜く。気に入っている一文もある。それでも、一文単位に固執するというのは、自分以外にとってはたいしたことではない、些末なこだわりにすぎないのだろうと思っている。

 *

 昨日の深夜、古い知り合いと長く通話して、べつに相手に諭されたのではなく、勝手に話しているうちに、自分の恵まれている箇所に気づいた。

 これまであまり深く物を考えて書いたことはないが、最低でも自分にとっていいものを書こうというスタンスでやってきた結果、いっさいのメディアミックスをやっていないにもかかわらず、たくさんのファンアートをもらえて、二次創作を書いてもらえて、一般的な基準よりも多くの続刊の許可をもらえて、というのは、やはりそういう行為が無駄ではなかったのだという簡潔な結論を導く。

 ぼくにも小説を書いていくうえでの苦難は多々あるが、おそらくぼくと同じ状況で、ぼくと同じスタンスで臨んだ作家のなかには、身の回りと読者からほとんど反響をもらえずに苦しんだ者も多いはずだ。でも、ぼくはそういう部分では苦しんだことはなかった。それは純然たる恵まれている部分であり、その行為が無駄ではなかったことの証明になっている。

 いざ物を書こうというときに脳裏にちらつくようになった、これをプロとしてやるのか、あるいは荒野のなかに自分ひとりしかいないような心持でやるのか、という二択のスタンスは、ぼくの地盤を揺るがすものだった。これまでぼくは、後者の気持ちしか持っておらず、長らくそれが正しいと思っていたが、最近になって前者の気持ちを持つことが大事だと気づいたところに、今にして、結局は原点に還るしかないのではと考えさせられている。二転三転して、結局は戻ってきている。

 というのも、これまでのぼくの身に振りかかったいいことも悪いことも、すべてはぼくが原稿の外の部分のプロ意識を断絶しておこなってきたからだという自覚があるからだ(原稿の内部にかんして手を抜いたことはない)。

 さらにいえば、そのプロ意識とやらは、この世に本当には存在しないまやかしだとしか思っていない節は、いまだに残っているからだ。まやかしではない、この世にまちがいなく実在するのは、原稿という不動の完成物だけであって、自分が目を向けるべきはそれだけであるという根っこの考えは、そこまで変異していない。そうした、この世に実在する原稿が観測されたときに、ひとが書き手をプロだと思う/思わないというのは、ぼくにとって二の次、三の次の話となる。

 もちろん、この世界においてプロと呼ばれるようになる基準は、原稿の中身の観測によってではないというのはよく承知しているが、ぼくの読者としての価値基準が、そうした環境への理解とはべつのところで、ぼくの本質的に不変な部分にメスを入れようとしていないのだ。

 ぼくが試すべきは、プロとして臨んで、ある意味では自身を殺すような書き方をしたときに、上記でいう美文における著者の色問題と同様に、それでも消すことのできない自分がそこに残り続けるかどうかの、実際的な実験であるといえる。

 そしておそらく、それは残るのだと思う。少なくとも、そう信じなければやっていけないものだ。

 これはなかなかおもしろい話だが、商業出版の世界は、そのフォーマットと書き方の様式からして、ほかと同じ工業的な部品であることを望まれているにもかかわらず、最後に重宝されるのは、なぜだかほかとは違うネジのかたちなのだ。

 これは理不尽な話だが、ぼくはそう怒れたものではないと思っている。+になるように加圧されたネジが、ただおとなしく+のかたちになって終わるというのは、それはその程度の素材であって、いくらでもかわりはいる。かわりになるようなものがプロと呼ばれたがるなんて、それは身の程を知らない話に思えるのだ。