lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

 インターネットの産んだ深い問題のひとつに、自我の肥大化がある。自分が面識を持ったことのない人間に対しても簡単にコミュニケーションが取れるというのがその最大の要因で、特に相手の社会的な影響力が高かろうと低かろうと関係ないというのも罪深い。

 まあ、もちろん社会的なステイタスを基準に話しかけられる人間が決まるというすさまじい制度が必要とも思わないので、単純にインターネット上における発言にたいして責任が生じない現状の法制度のほうにこそ問題があるだけなんだけど、ともあれである。

 自分の発言がだれかに聞いてもらえる、自分はそれだけの価値がある人間なのだという風に、多くの人間が思い込んでいく。本来、ことばを聞いてもらえる人間というのは稀有な存在だったのだが(ひとかどの者でなければ、だれも耳をかたむけないものだ)、インターネット上ではそうではない。いや、実際にいうと、いまだにある程度レアな存在ではあるのだが、実際には虚空に消えていく価値のないことばであろうとも、だれかに聞いてもらっているように錯覚されるので、実質的な問題がない。

 インターネットとは書いているが、まあ端的にいってSNSのことではある。

 ツイッターも、数年前までは商法としてまだ価値があったのだが、今はそういう機能性もほとんど失われてしまった。正直、いまだに代わるサービスが出てきていないだけで、あのツール自体はとうに終わってしまっていると思う。

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 ぼくは自分の書くことばを「残ったほうがよいと感じるもの」と「そうでないもの」に分けている。わざわざ小説などのかたちにする場合は、ほとんど前者だ。小説にしなくても残したい場合は、べつにツールを使う。

 ひと昔前までは、自分がどういうつもりで場所による書き分けをしているのかがわかっていなかったが、消えて構わないものはSNSやブログに置いている。その傾向は年を追うごとに強まっている。たまにきちんとした形式で書くこともあるが、そうでないことのほうが圧倒的に増えてきている。

 べつにそれでいいのだと思う。

 昔は半分疑念を抱きながらだったけど、今は心からそう思う。