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kokoha tekitou kousin blog jayo

ぼんやり2

 インターネットで見かけたことについて。

 最終的な結論が「ものは読んだほうがいい」になる場合、そういう指向からは逃れられないし、逃れるべきでもないのではと思った。学問は人を傷つけるけど、それは悪い傷ではない。

 電波塔として機能するアカウントが使う可愛い動物動画、さまざまな問題が潜在していそうなんだけど、最近どうも頭がにぶくてうまく言語化できない。

 ぼくが観測しているかぎりだと、10年ほど前から「対案を出せ」という論調が強くなってきたように思う。これは仕事の専門性が薄れて、人の役割が横断化してきたからだと思う(ポスモダの論を借りれば、「だれしもがたいした存在ではない」ゆえに梯子がはずされて、政治家とその他のあいだにあるはずの差異が消失している)。有権者は政策あるいは政党にたいしてYESかNOかを唱える、その結果が投票行為としてあらわれるのであって、それ以上でもそれ以下でもないという単純な話さえもわからない人間が増えている。ぶきみな話だと思う。

 ↑これがいちばんわかりやすいなと思った

 マニックピクシードリームガールについてはまったく擁護する気はないんだけど、単に製作者にとって都合のいい人形であるという、より大きい概念が包括してしまっているので、だいたいわざわざMPDGとは言わないなと思った。ミソジニー的な文脈に向くタームなのだろうな。

 30にもなると人形劇は本当にみたくないので、もうみるだけみて批判するという行為もしづらくなってきてしまった。わざわざ虚構の世界を観測するならもっとちゃんとしたものがいい。これからの人生は今まで以上に自分が好きなものに向いてしまうだろうなと思う。