lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

みたものども

 水星の魔女を見た。異様に小規模な話だなぁーとあらためて驚いた。当初想像していなかったレベルの小規模具合だ。PS時代のアクションアドベンチャーゲームくらいステージ数が少ないし、世界観の奥行きもない。話の体幹がないというのはこういうことかと思った。

 登場人物のエモさだのなんだの、そういう安いかつミクロな目線で物をやろうとすると広い世界が書けなくなるのだろうか?グエル・ジェタークとコレン・ナンダーの描き方の懐の違いを意識すると悲しくなるレベルだ。

 ちょっと前に、知り合いが「キャラはいいけどストーリーが悪い」という感想をとあるアニメに向けて吐いていて、個人的にはものすごく違和感があった。というのもキャラとシナリオは不可分な存在で、相関的だからだ。

 いいキャラクターがよく動けば、よいシナリオになる。あるいはキャラクターをよく見せるためによいシナリオが生まれる。どっちでもいいけど、いずれにせよキャラクターという心臓のために存在するのがシナリオのはずで(ぼくは明確にキャラクター>シナリオだと思っている。シナリオ>キャラクターではない)、どちらかがよいけどどちらかが悪いということはないと思っている。

 水星の魔女が広い世界を描けていないのなら、すなわちキャラクターにも問題があるはずだ。そしてそれはこの最新2話で如実にあらわれていたと思う。急に別人格になったかのように物を話すシャディクやプロスペローを見て、それでもこの世界を、ともすれば実在するかもしれない強度のSFとして捉えることのできる人間がいるのだろうか?キャラクターは脚本家の操り人形ではない。

 ぼくはキャラクターを書き手が自由にコントロールできる下位の虚像人格だと捉えている人間が総じて苦手だ。まともな作家であるか否かの差はひっきょうそこに出ていると言っていいと思う。

 キャラクターがコントロール可能な存在だとしたら物を書くのはずっと簡単なおこないだし、もっとずっとつまらない行為のはずだろう。

 キングオージャー。今週もおもしろかった。ジェレミーがいちど離反したのなんだったんだろう?と甚だ疑問だけど、それくらい。

 知り合いに付き合って視聴していたMCUがとうとうエンドゲームまで辿り着いた。

 いまさらエンドゲームについて長々とは書くまい。何回見ても非常にうつくしい映画でした。