lokanikki

kokoha tekitou kousin blog jayo

なんだかなぁ

「この本に書かれているのは名文ですよ」と事前に教えられないと、そこに書かれているのが良文であるのかどうかわからないという、確実にごまんと存在している層の存在を認識しながら、それでもなにかしら辛抱強く書き続けるというのは、大変な話なのだなぁと、ふと思った。

 ただ、だれかになにかを言われなくても自分の目で真贋を見分けることができる、あるいは世間が贋としていたとしても、自分が真であると思えたのであればそれが真であると信じられる人間になるためには、やはり最低限経験しなければならないものが存在していて、そういう一種のはぐくみのためにやっている、という見方も可能ではある。

 結局、すべては信仰である。なので自分が書いたものを自分で真と思えたのならば、他者の評はそもそも意味をうしなう。そしてこれがおもしろいのだけど、他者の評が意味をうしなう段階になったときのほうが、結局、他者の評も勝手についてくる。

 文章をジェネレートするというのは、最終的には孤独なおこないであるし、それで正しいのだと思う。ぼくはこれがインタラクティブな行為ではないと思っている。