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第三次厭世ショック

 7年前の君の名はショック、4年前のプロメアショックに続いて、ことしは水星の魔女ショックがおとずれている。どれも劇そのものというよりも、観客に対する失望であり、それの意味するところは強い厭世観となる。

 こうした、明確に内容に問題がある、もしくは明確にドラマが描かれていないものにダメージを負うようになったのは、まがりなりにも自分が観客に向けてなにかを書かなければならなくなってからだという確信がある。昔はそういうことはなく、しょうもない話を知ったときは、三流以下の話そのものに対して怒っていた。

 今はそうではない。命題としては「べつにこれで大半の客に喜ばれるなら、書く側はとくにがんばる必要がない」ということだ。アニメの脚本や小説の組み立てというのは、このクオリティで客が怒らないのなら、遠くないうちにAIが取って代われると思う。正直、余裕で可能だと思う。水星の魔女は、とくにその傾向を明示してきた。再三言うが、ぼくはあの作劇にかんしては、はっきり言ってどうかしていると思う。あれほどなにも書かず、すべての説明責任から逃れた話でまともに怒られていないというのはすさまじい。

 若干脱線ぎみに自分をフォローしておくと、こうした作品群に対する難色は、ぼくの周囲のオタクたちもおおよそ同意するところであって、インターネットを除いたぼくの交友関係だけでいうなら、わざわざ厭世観が募るものではない。君の名ははあきらかに最低限求められる説明責任から逃れており、プロメアはあきらかにジェノサイドを肯定しており、水星の魔女にはあきらかにドラマが存在していないよな、という感想で、おおよそコンセンサスが取れる、ぼくの基準でいってまともな場所で生きている。つまりぼくがストレスを感じなければならないのは、ものを書く側として目に見えない顧客を観測しなければならない状況にあるからだ。

 こういう状況で自分に求められるのは、観客を含めた他者を気にせずにやっていくことだ。つまり、自分の書くものの基準を自分だけに規定するということだ。それはそれで一種の真摯な態度ではあるように思う。おそらく賢い人間なら、「客がこの程度で満足するならばこの程度に力を抜けばよいのだ」と、むしろ得したようなノリでプレイできるのだろうが、ぼくにそういうフレキシブルさがないため、そうした賢い対応ができない。

 勘違いしないでほしいのは、ぼくはもともと、べつに大半の観客がレビューで☆4をつけるものは書いてきたつもりだ。観客がわかってないから自分が評価されない!というふうに怒ったことはなく、むしろだいたいの場合、そこまで加味して書いてきたつもりだ。大半の人間には☆4をつけてもらうという下限のもと、ごく一部わかってもらえる人間に向けて上限値を設定しているつもりだ。が、今はそこに、現実的な意味を見出せなくなっている。

 とくに、今は自分が書きたいものというよりも、商業性を第一に据えていて、これなら商業ラインをクリアしているだろうと思えるものから自分の書きたいものを探しているわけだが、こうなってくると「自分の書きたいもの」が、自分のモチベーションを保つということ以外にまったく役に立たない気がしており、そのあたりがつらい。

 ぼくは、ぼくの本を読んだ人間が、今後もぼくの名前を冠して出る本についてはかならず買おうと思ってもらえる要素を守ることにかんしては全力なのだが、そうした基準で自分ブランドを守ろうとする行為が、いよいよ商業性に繋がらないだろうということが明かされており、堪える。この話を突き詰めると、商業出版にこだわる必要はまったくなくなっていく。それはもう、今後ぼくがどれだけ本でお金が欲しいかというだけの話になっていく。

 すべての物語は、客が乗り、次の波に移るまでのあいだだけ、その形が成される。少し前にはリコリスリコイルという空虚な物語に大勢で乗り、次は水星の魔女という空虚な物語に大勢が乗った。またべつの空虚な物語が、波としてやってくる。

 これをわかりやすく言うと、すべては消費物に過ぎないということになる。ぼくはこの話を、10年前にキルラキルがはやったときからずっと口にしている。グレンラガンは10年20年経とうとも言及される物語になり、だれかのなかに残り続けるものとして、消費物の枠を超えたが、キルラキルはけしてそうはならないと言った。プロメアも、当然そうはならないと言った。おそらくこの説は当たっている。だがその事実に気づいている人間は少ない。

 多くの者が目先の利益だけを求めて、最後には自分たちの首を絞める行為にいそしんでいる。これは経済がかたむき、人間の知能レベルが落ちた社会においては、すべての業界で言えることだと思う。基礎研究をやる学部を撤廃して実学をやる学部を増やそうと自民や維新の政治家がアホ面をさげて叫んでいるのと、状況は似ているといっていい。最後には自分たちを、ぼくたちを巻きこんで殺す。映画でいえばドントルックアップと同じだ。

 たしかに商業作はすべて金で消費されるため、原理的に消費物であることから逃れられない。が、物語とは消費物である前に、触れた人間をゆたかにするものである。つまり、人間を人間たらしめる手段である。そう、ぼくは原則的に、ビルディングスロマンにしか価値を感じていない。たびたび言及している「中学生の感想をもっとも重要視している」というのは、おおよそ同じ文脈だ。そうした意義の見込める行為でないのなら、こんなものにわざわざ手を出してはいない。

 時間がすべてを解決するので、いつかこういうショックも喉元を去り、またのそのそと動き出すのだと思う。しかしそのときに、ただバズと話題性だけを狙い、中身が水星の魔女くらい空虚であっても評価されるべつの作品群と比べられたときに、具合が悪くなるほどの苦労を差し出して得られるリターンに、果たしてぼくが価値を感じるのかは、自分でもわからない。

 ぼくは、自分が書いていて自分が喜べる話というものを、創作する際の第一条件として重要視しているが、同時に商業的な基準というものも重要視しているため、自己満足で書いた話を、わざわざひとのところに持っていこうとはなかなか思えない。何年か前まではまだよかったが、今は障壁の数の多さと厚さというものがよくわかっているため、わざわざゲームに乗る気になれない。

 ちなみに、やるべき答えはわかっている。ぼくがもしも、だれが読んでもおもしろいと言わせる話を書いていると自負しているのであれば、たんにそれを続けるべきだということだ。本件の最大の問題は、解答がわかっているからゆえなのだと思う。

 最後にあまりにも同意な意見を貼っておく